大谷 哲也 ― 白の器

大谷 哲也 ― 白の器

2026.4.11(Sat) _ 5.3(Sun)
Open : 10AM _ 6PM
Closed : Wednesday
Online : 2026.4.29(Wed) 9PM _ 5.3(Sun) 5PM
Tetsuya Ootani : 4.11(Sat)

大谷哲也の器は『抽象』ですか?『具象』ですか? そんな問いから始まりました。
白磁作家として主に機能美を追求し、轆轤の手跡すら残さない白い器だけを制作し続ける大谷哲也氏。
その活躍は年々世界でも認められるまでとなりましたが、彼が生み出すものは工業製品のような使い勝手の良い単なる白い器なのでしょうか。この度921GALLERYにて展示会を開催するにあたり、器の裏に潜む彼の思考を紐解きながら目に見える形や機能としてだけではなく、その奥に込められた心象に迫りたいと思います。

僕は「今の暮らし」に合った器を作ろうと、器物の持つ様式や土着性、文化的な記号を取り除き、器の骨格を剥き出しにしていくことで無国籍化を図りました。このことは、デザイン的な思考で工芸にアプローチしてきたと言えますが、器物の文化的帰属をぼやかして抽象化してきたとも言えます。逆に、桃山や信楽陶の再現、民藝やデルフトの引用といった特定の様式を手本に、その記号を拡大していくような取り組みは、この文脈においては具象的であると言えます。
僕にとってこの抽象化は、あくまでも「今の暮らし」というキーワードにたどり着くまでの手段でした。そして、このプロセスを経たことで、これまでになかった「違和感」を生み出し、作家としてのスタイルを確立していきました。とても具体的に機能的な食器を作っているにも関わらず、「抽象的だと感じる」いう指摘があてはまるのは、このためだと思います。ただ、一旦スタイルが確立されてしまうと、その抽象性は記号化され具象へと変質し、それまで感じていた「違和感」が消失していきます。「今」は常に更新され留まることはなく、これまで世界各地で作られてきた器物の歴史がそのことを静かに物語っています。だからこそ僕たちは、縄文土器を作った縄文人の、志野を焼いた桃山時代の陶工とその暮らしに思いを馳せ、リスペクトできるのだと思います。

大谷哲也の白い器の裏には『脈々と受け継がれる暮らしの中の思想』と『挑戦的な違和感』が感じられます。
その中でも食器ではない満月壺の制作に取り掛かった背景には一体何があったのでしょうか。
上下左右対照で器を二つくっつけたようなこの形には単なる道具としての用途を感じさせません。単純な構造がゆえに道具の域を超越し、これが使い勝手の良いものなのかは不問です。極めて単純化された満月壺は、形の奥に潜む万物を内包したものを感じると同時に見る者に想像を与え、技術を追求してきた大谷だからこそや、言葉では到底辿りつかない真実に今彼は向き合おうとしているのかもしれません。さらに大谷の特徴である白に手跡を残さない轆轤からは作家性と言われるものと異なった違和感を覚えます。しかしその行為によって作家性を取り除き無国籍化し、ある意味現代に生きる鑑賞者に自由な解釈を促し抽象化させていると言えます。また形があり機能がある器は具象として目で捉えることができますが、白という色は大谷哲也の心象として捉えることができます。そういった中で彼はデザイン、工藝、アートの境も独自の解釈によってどこにも属さない、無境地とも言える場所に辿り着きました。
食器を制作していながら私が彼の器に違和感を覚えたのは、そうした背景から一つの作品にたどり着くまでの複雑なプロセスがそこに感じられたからなのかもしれません。それらを解釈したうえで大谷哲也はこう言います。
“全てを取り除いた時 そこに残るのはピュアな自分である”
過去と現代を見つめどこまでも白に始まり、白に終わる。
それが大谷哲也の白い器なのでしょう。

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